映画「沈没家族」 「弱さ」をさらけ出すことでつながる

ポレポレ東中野で上映中の映画「沈没家族」。いいですねえ。シングルマザーの女性が始めた、血縁のまったくない「共同保育」という「家族」のカタチ。90年代にいろいろなメディアに取り上げられたその家族の中で育った子どもが、20年近い時を経て自ら監督として関係者へのインタビューをするドキュメンタリーです。家族って何? という根本的問いかけが根底にある映画です。「集活」の観点からも、「つながる」ってどういうことかを考えさせられます。


「べき」規範からの解放

父であること、母であること、子どもであることといった、ともすると「べき」でがんじがらめになっていて、本人たちも疲弊してしまう規範を軽く一蹴する姿がすがすがしい。肩ひじ張らないで、集っては別れる。親になるのも「たまたま」、一緒に暮らすのも「たまたま」。オルタナティブがあると、息苦しさ、生き辛さが一挙に軽くなるんだな、と。もちろんこれが「正解」というのでは全くない。そうした「正解」か「間違い」かという価値観の外にある、あらゆるものを包摂するゆるやかな、やわらかな感性というものに、私は共感しました。


父親のいら立ちが意味するものとは?

愁眉というか、一番の見所ともいえるのが、血縁の実の父親へのインタビューの場面。父親だけが共同保育の輪の中にいない。父親の「いら立ち」が示すものは、やはり「べき」の規範への無意識の従属なのか、血縁というものがもつ特殊な関係性と信じられている何かがなせる業なのか、単に「共にあること」ができなかったことへのいら立ちなのか。いろいろな解釈ができそうですが、いわゆる「世間的常識」が、信じているものに傷をつけられたというか、ざらっとした波を立たされてしまったことに対するいら立ちのように私には感じられました。


どんな生き方、家族でも自然でいられることの価値

繰り返しですが、もちろん「子どもは血縁関係のない大人の中で育てるべきだ」などと言っているのではまったくありません。それこそこの映画で表現されているものの真反対、対極にある、規範による縛りそのものでしょう。そうではなく、どんな生き方をしていても、どんな形の家族であっても、自然にいられること。そのことの価値をもう少し見直した方がいいなと思うのです。


弱さをさらけ出せることの意味

それにしても母親の、人と人とを結びつけるチカラはすごい。おそらく、弱さをさらけ出すことにためらいがないのだろうな、と映画を観て感じました。多くの人はその弱さをさらけ出せず、自分一人で、もしくは閉じた関係性の中で悩み、もがいてしまい、疲弊してしまうのだろうな、と。楽に生きる秘訣みたいなものを感じます。すごい人です。そうした弱さをもう少し自然に、だれもが他者にみせることができる社会こそが、やさしい、包摂社会なのだろうな、と。息苦しさが少ないしゃかいになるのだろうな、と思います。

集活ラボ

「集活」を広めたい。 人と集い、語らい、交流し、縁を紡ぐ。 それが集活です。 社会的孤立が広がるいまだからこそ、 集活が必要だと考えます。 集活ラボでは、 関連する情報などを紹介していきます。  集活ラボ所長・星野哲

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